美しさと距離
人生の中で発見するものは、その人間がもともと持っていたものを乗り越えるかたちで見つけられるものであるから、何かを見つけた、と思った瞬間、それまでの自分のことを忘れてしまう。
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なにごともそうだが、ものを美しく見るには、その距離を選ばねばならない。・・・「阿蘇の野の花Ⅱ」佐藤武之
最近になって、妻とともに花の美しさについて語ることが多くなった。逆になぜ最近になるまで花の美しさに対して関心を持たなかったのか?それにはわけがある。001はずっと「汚しうる美」を追究してきたからだ。ライフワークにすると29歳のときに決めたからだ。
汚しうる美をぼくは冒頭の画像の中で説明している。
美しさには二つある。花の美しさは、指一本触れてはならない、汚せない美。触れても価値を損なうことのない、汚しうる美。汚しうる美は、自然の風化作用を受けたものや、壊れかけたものに認められる。
空間の中に、汚しうる美を取り入れていこう、と考えてつくったのが、グリッドフレームという空間を組み上げていくためのシステムパーツである。
もともとぼくはものや風景を遠くから眺めるのが好きであり、近づくことが苦手だった。対象との間にある、見えない境界線を越えることを意識して、それを実現するたびに人生は豊かになる、という実感を得ながら生きてきた。
「汚しうる美」はぼくにとって、まさに発見だった。触れても壊れることのない「強い」美しさを身の回りに獲得できれば、人間はどこまでも自由でいられるではないか。そのような思いで、店舗空間をつくり、汚しうる美の価値を証明してきた、と思う。
しかし、汚しうる美のみで自由な空間が成立するわけではない。
実は、今の仕事を支えているのはむしろ、もともとぼくが得意としていた、ものや風景を遠くから眺める能力に負う部分がベースとなっている。つまり、花の美しさという、汚せない美を感じ取る能力である。
人生の中で発見するものは、その人間がもともと持っていたものを乗り越えるかたちで見つけられるものであるから、何かを見つけた、と思った瞬間、それまでの自分のことを忘れてしまう。ぼくはこの文章を書きながら、「汚しうる美」と「汚せない美」、両方でいいんだ、とひとり深く納得している。
20年以上前に、飼っていた犬レオ(雑種の白い犬)は、自分のえさの近くに雀たちが舞い降りてくると、自分がえさを食べるのをやめて、犬小屋へ引っ込んでねそべり、雀たちがえさを突っつくのを目を細めて見ていた。
ものを美しく見るには、その距離を選ばねばならない。レオはこのことを知っていたに違いない。
(2009.5.10)