境界は外部に属する
フレーミングが、「単独性-普遍性」と「特殊性-一般性」を繋ぐのか?
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内部とは何か?
内部とは「心」なのか?
柄谷行人であれば、内部とは「単独性」だというだろうか?
ならば、心といっても、削り出された後に残った、もうこれ以上は削れない、個人の核のようなものだといっていいだろう。
そして、外部とは「普遍性」ということになるだろう。
しかし、それでは、社会を動かす論理を構成する「特殊性-一般性」はここから消滅してしまう。
それは、この回路の外にあるからだ。
心とは雑多であり、個人の核は、様々な世俗的な要素によって埋もれていて、社会の論理はこの各人にまたがる共通項によって、構成される。
核の部分は、いつも社会から取り残される。
ぼくがいつも目的にしている「創造性」は、核の部分、つまり「単独性-普遍性」の回路に属する。
今までぼくが「創造性」について書いてきたことが、ずっと社会とリンクしないように感じてきたのは、この二つの回路を繋ぐことができなかったからだ。
しかし今、その二つの回路が言葉において繋がったのを感じている。
それは、森敦「意味の変容」において、「境界は外部に属する」と書かれている意味を初めて考えてみたからだ。
森敦「意味の変容」は、元々が数学なのだから、いくつもの読み替えが効く。内部は「単独性」で、外部は「普遍性」という解釈はもちろん可能だろう。
だが、「境界は外部に属する」という言葉について考えるとき、内部は「単独性-普遍性」、外部は「特殊性-一般性」に読み替えることができるのではないか。
外部からの視点において、内部を、境界という枠にはめて、つまりフレーミングして見る、ということだ。
内部は境界がそれに属せざる領域だから、無辺際の領域として、これも全体概念をなす。(「意味の変容」p19)
その意味では、内部としての「心」も全体概念をなすだろう。
混沌をフレーミングによって、感受可能なものにする。
そして、そこから、核=単独性を見出す。
つまり、フレーミングが、「単独性-普遍性」と「特殊性-一般性」を繋ぐのか?
これについて、よく考えてみたい。