境界は性質として見えてくる
さまざまな全ての性質は境界に属しているのであり、境界は、外部からの視点のみにしか、存在しない。
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森敦「意味の変容」において、内部-外部の境界は、外部に属している、とある。
例えば、会社の大きさは、外部からのみ言えることであって、内部には境界が属さないから、内部から見るとき、その大きさはどの会社にあっても無限だ、という。
この認識が正しいことは、10人程度の会社を長くやってきたからよくわかる。
つまり、大きい、小さいを始めとしたさまざまな全ての性質は境界に属しているのであり、内部にあっては、性質という他と比較できるようなものとは無関係に、ただ存在しているだけで価値がある、という「とりかえのきかない」、言葉では表せない実体がある。
れいわ新選組の候補者たちが、7月13日、品川で代わる代わる訴えていたのも、これだ。
外部からの目だけで、他人の価値を測ってはならない。言い換えれば、生産性だけで人の価値を測ってはならない、ということになる。境界は、外部からの視点のみにしか、存在しない。
時間と空間と存在を、自分のものとして取り戻す。
ぼくらは、自分の全人生を賭けて、全力で生きることができる幸せをかみしめたい、と願って、ここにいる。きっと、そのために生まれてきたのだ。
ぼくらにも、自分自身の内部が消されようとしていると感じることがある。
残念ながら、危機感すら伴わずに失ってしまったかに見える人も多い。
今の教育は、外部から境界を見極めること一辺倒で、内部からの視点をおろそかにしてきただろう。
内部の一点は、外部の一点に対応する。
内部がなければ、外部など何の実体もないのだ。