自然の美しさについて
自然を美しいと思うのは、自然と直接に関わりを持たないからだ
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海野次郎さんは、奥多摩に暮らしている。海野さんは、奥多摩の自然を描く。だが、自然は美しいというより、いまわしく恐しいものだ、と語る。
自然の中で暮らす、とはこういうことだ。自然は風景として眺めていればよいものではない。自然とは闘う相手なのだ。
自然が美しいのは一瞬だ、と海野さんは語る。その自然を描く。
奥多摩へ絵を描きに出かける人と根本的に違うのは、この時間性ではないだろうか。観照としてではなく、実践的に関わりを持つことによってしか、この一瞬には出会えない、ということではないだろうか。
そのようにして見い出す美は、文人画家の描く美とは異質なのだろう。おそらくは、宮本武蔵のような武芸者の描く美に近いのではないか。
私はかつてヨーロッパを数百キロ歩いて旅をした。歩いて旅をすることによって、道端で出会う雑草までもをじっくりと見つめることができるのではないか、と考えたからだ。
しかし、目的はすぐに「明るいうちに次の町へたどり着くこと」にすり替わって、足元へ目線を落とすことすらためらわれるようになった。
歩き終えて、急行列車に乗り、窓から眺めを見たときに初めて、飛んでいく木々の一本一本を見逃すまいとしている自分に気づいた。
愚かな話である。だが、この経験は、自然を美しいと思うのは、自然と直接に関わりを持たないからだ、ということを教えてくれた。
海野さんの水墨画にある、自然の美しさは、上の話とは全く別のものである。それは、生きるために「必要」なものの持つ美しさではないだろうか。