海外
鎖国的な意識、とは「直感」を信じない、ということだと思う。
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外国のことを「海外」と呼ぶのは、日本が島国だからだ。
彼の国とは海によって隔てられている、というイメージは、外国に対する想像力をひときわ強く掻き立ててきただろう。
想像の産物は、あるときは強い憧れになり、あるときは強い嫌悪になる。
が、所詮は想像の産物である。ぼくらの生活には、本質的には影響しない。・・・などという鎖国的な意識は、江戸時代とともに終わったわけではなく、実は今も根強いのかもしれない。
海外で生活をしたことがある人と、そうでない人との違いは、つまるところ、strangerになった経験の有無だと思う。
もちろん、海外で生活をしなくとも、日本でstrangerとして生きる人もいる。
ぼくは、20代の半分近くを海外で過ごしたが、その後ずっと日本にいるのは、日本でもstrangerでいられることに気付いたからだ。
人がstrangerになったとき、人は、今立っているところから未来への道が全方向に開いている、という状況を経験する。ガイドがいないのだ。
そんなとき、人は「直感」を信じて動くしかない。
以前にも書いたが、たぶん、直感に間違いはない。それは全て何か意味のあることなのだ。
間違いがあるとすれば、それに対しての解釈の方にある。
ぼくはstrangerになった経験を通して、以上のことを学んだ。
鎖国的な意識、とは「直感」を信じない、ということだと思う。
振り返ると、グリッドフレームのデザインがかたちになり、その威力を発揮するのは「直感」を信じる人がクライアントであるときだけだ。