GF001のコンセプトノート

店舗内装デザインを手がけるグリッドフレーム001の視点

時を生む住居

人は誰でも生を受けた瞬間から、体一つになっても常に余りある永遠を手にしている。だから、さらなる永遠を手にするために大きな機械の歯車になることを強制される必要などない。

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時間とは、地球のすみずみで常に一定の速さで刻まれているか?

ぼくらは、時間という定規の、等間隔に刻まれた目盛りの一点に産み落とされたのか?

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古代の日本人はそのような時間の捉え方をしていなかったかもしれない。

夜明けのことを「夜のほどろ」と表す歌が万葉集にある。

「ほどろ」とは、解く(ほどく)、施す(ほどこす)、迸る(ほとばしる)であり、「ゆるみ、くずれ散るさま」を意味する。動かない固い暗闇が朝陽に融けて崩れ散る動的な様子を表すのが「夜のほどろ」だった。

「時」は「解き」、あるいは「融き」だという説がある。 固まって動かない永遠性が解体され、その瞬間に「時」が生まれる。

そして、解かれたものはやがて、また結ばれ(=「むすび」)、固まって動かなくなる。

時間は、生まれて、消えることを繰り返す。止まっているところに時間は存在しない。

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家の中で夜明けに目覚め、外へ出かけ、帰宅して、夜更けに眠る。

その一般の生活スタイルが、現代と古代とで著しく違うわけではないだろう。

だが、現代の生活が決められた時間の中での「生産性」を目標としているのに対し、古代の生活には別の価値観があったのではないか。

生産とは逆の「解体」によって時間が生まれ、バラバラに解(ほど)けたものが「結合」することで時間が消える。それが古代の時間であるならば、そこには固まって動かない永遠性が基盤をなしていることが分かる。

その永遠とは例えば、夜の闇であり、盤石な大地であり、同じく盤石な地位・役職であり、天賦の才能であり、安定した生活であり、計画通りに実現する未来もそうだと言えるかもしれない。さらには、不変の愛やその根底にある悲しみ。そのような基盤が崩れることで初めて時間が生まれるのだ。

現代は、古代人が前提とした永遠をまるでないものかのように目的として掲げ、人間にたゆまぬ生産を求め、何に対しても入念に計画し、計画実現のために一致団結を要求し続ける。そんな努力を強いられながら、ぼくらは時間のない虚無の世界へ向かっているのではないか。

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「人生とは、なにかを計画している時に起こってしまう”別の出来事”のことをいう。」

ある映画でこんな言葉があった。古代の時間とは、まさにこの「別の出来事」のときに流れるものだろう。だから、その時間の中には、嬉しいことも悲しいことも含めての「人生」がある。

現代社会は計画している時に起こってしまう「別の出来事」を嫌う。ネガティブなことが起こらないうちにその原因を取り除こうとする努力は、それを徹底すればするほど、同時にポジティブなことも失う結果をもたらしてしまう。

例えば住宅についていえば、ハウスメーカーは 全てのパーツを自社カタログから選ぶシステムを完成している。そのため、「別の出来事」が入り込む余地がほとんどない。そのことによって、品質が保証され、工程や見積がずれる要因もほとんどないから、依頼主は安心して竣工を待つことができる。一方で、そのメーカーのつくる住宅は全て同じ仕様でつくられるため、依頼主のためのオリジナリティへの驚きや感動はほとんど期待できない。

同じことがあらゆる分野で当てはまる。ぼくはこのことに強い危機感を抱いている。もし、現代社会における計画すべてがそのまま実現するようになれば、人間は時間を失うと同時に、それぞれの「人生」を失うことになりはしないか。

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なぜこんなことになってしまうのか。

ぼくら人間がこの世界に体一つで生まれてきたとき、皆すでに永遠性を内包している。人間一人ひとりが、他の動物から見ればほとんど神のごとく圧倒的に優れた能力の持ち主であり、その意味では個人差などわずかな誤差に過ぎない。豊富な資源に満ちている美しい地球環境も含めて、本来ぼくらは何かを求める必要がないくらいに与えられて生まれてくる。そのような認識を前提とすれば、古代の生活のように、時間とは「永遠を基盤として、それが解かれるときに生まれ、やがて結ばれたときに消えるもの」として捉えることができるだろう。

だが現代社会は、体一つの人間を何も持たない数字のゼロと見なす。そのために永遠を常に渇望して生産に駆り立てられ、数字を増やそうとする。数字に上限はなく、いくら大きな数字を手に入れようと永遠に届くことはない。だから、人々はいつも不安を抱えている。もっと生産しなければ、と均質な時間の目盛りの上でひたすら機械のように働き続ける。

この定規の上から、降りるにはどうすればよいか?

そのために、ぼくらは空間づくりの中でなにができるだろうか。

◇ ◇ ◇

リノベーションは解体から始まる。いいかえれば、固まったものが解かれて散っていく「ほどろ」から始まる。

2019年から住宅のリノベーションを始めた。KZ邸のリノベーションではカタログ建材でつくられた壁が取り払われて、下地のコンクリートや鉄筋があらわになった瞬間を見て、依頼主が笑顔でこう仰った。「すでに、いい感じになっていますね。」依頼主は、時間が生まれたのを感受されたのだと思う。

ぼくも笑って応えた。「ええ、壊れるほど、良くなりますね」

一般に行われているリノベーションでは、あらわになった下地の材料を、また新たな建材で覆い隠して、生まれた時間を消滅させて凝固したものが完成して工事を終える。

ぼくらはそうしない。解かれて動き始めた糸の自由な戯れに任せて、その動きに寄り添いながら、新しい何かをつくっていく。つくりながら考える。これが「創造性の連鎖」である。もちろん、あらわになった下地がそのまま残ることも多い。依頼主に空間を引き渡した後も、生まれた時間は消えることなく、そこで生き続ける。

また、ぼくらは新しくつくる空間に既に長い時間を過ごしたものを空間づくりの素材として取り入れていく活動SOTOCHIKUを進めている。

さまざまな時間を過ごした素材が一つの空間に集結し、互いに複雑に呼応し合うことにより、人間が「時間という定規の、等間隔に刻まれた目盛りの一点に産み落とされた」という認識を壊したいと思っている。

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もう一度、強調したい。人は誰でも生を受けた瞬間から、体一つになっても常に余りある永遠を手にしている。だから、さらなる永遠を手にするために大きな機械の歯車になることを強制される必要などない。

そのことを実感するには、それぞれの人が自分にとっての「時間」を見つめる機会を持っていただきたい、と願う。いつか、ぼくらのつくる空間を体験していただきたい。

001@gridframe • 2020年10月20日


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