本質について話す
ぼくの言葉が、相手の中で時間をかけて反芻されることによって、相手にとって少しでも何か意味のあるものに変換されることを祈るだけだ。
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「日本語というのは、人間関係の調和が前提となってできている言語です。まず関係性を規定して上下の敬語や遠近の丁寧表現を使ってコミュニケーションのフレームを作り、更に前提となる共有情報は主語でさえどんどん省略して会話全体を小さな謎掛けと謎解きで構成することで、ネバネバした親近感へ巻き込んで行くのです。更に、意見の相違や利害の相反が出てくると、婉曲表現や敬意の表現などを駆使して関係性を傷つけないようダイナミックなバランスを取ろうとする談話形式も定着しています。」(冷泉彰彦)
この日本語の特質から解放された自由な若者が増えている。含みを持った発言を聞いて、そのまま持って帰って反芻しながら自分の解釈をかたちづくっていく、という作業が成立しない。上記の「ネバネバした」とは、まさにこのようにまとわりつく言葉を指していて、それを嫌う者が増えてきた、ということだろう。
本質について話したい、という欲求には、二つあるだろう。ひとつは、自分にとっての本質を表現したい、という欲求。もうひとつは、相手にそのままそれを伝えたい、という欲求。ぼくは、日本語の中でどっぷりと生きてきたからなのか、後者については、はなから不可能だと思っているし、それがいいことだとも思っていない。
「含みを持った発言を聞いて、そのまま持って帰って反芻しながら自分の解釈をかたちづくっていく、という作業」は、ぼくにとっての最大の幸福な時間と言ってもいい。そうやって、ぼくは自分をつくってきた。
だから、言葉は、その場で白黒をはっきりさせるために存在するのではない、という立場をとる。
ぼくの発言に対して、相手が何を受け取ったとしても、それはぼくがコントロールできないことだ。相手に関心がないのではない。ぼくの言葉が、相手の中で時間をかけて反芻されることによって、相手にとって少しでも何か意味のあるものに変換されることを祈るだけだ。
「創造性の連鎖」の原点は、きっとぼくのこのような性質にある。