教える
陽向に「あいうえお」や数字を教え始めた。
彼自身のほのかな興味が芽生えてきたからだ。
だが、教えるという行為がいかに難しいことか、を思い知る。
まずは、集中力だ。教えられる側の「学びたい」と思う力の強さが前提となる。
それがないときの教える作業は、全く労力の無駄だ。
学校で、学びたいという気持ちが弱い児童の成績の向上を先生に望むなんて無謀だ。
やる気にさせるために、現在我が家ではご褒美作戦をとっているが、もちろん理想的だとは思わない。
で、ぼくが小学校の頃を思い出してみると、そこそこの体罰は容認されていて、先生は怖い存在だった。殴られたくない、というのがモーチベーションで勉強がんばりました、というのもどうかとは思うが、少なくともびびらせることは先生側の常套手段だった。
現在は体罰が禁止されているが、先生側にはフラストレーションを抱えている人も多いだろう。びびらせずに、どうやって30人の子供を真剣に勉強へ向かわせることができるのか。ぼくが先生なら、きっと答えに窮するだろう。
学校で体罰禁止なら、家で「学びたい」というモーチベーションを与えるしかないだろう。
そして、このモーチベーションとは、「親みたいになりたい」か、「親みたいには絶対にならない」かの二通りある。
心して子供の前での自分の立場を決めることだ、と今思っている。
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