集める
京都で学生だった頃、バー白樺の友達の若きっちゃん(若吉)から土曜日に電話がかかってきた。
「田中くん、あした空いてへんか?」
このニュートラルな質問にイエスと答えてしまったがために、ぼくは日曜日、コエタゴを洗わされることになる。
当時、若きっちゃんは大駱駝艦の京都南座公演の大道具の一員だった。舞台の袖にコエタゴを飾ろう、ということになって、その準備を任されたのだ。京都周辺の農家を訪れては、今はもう使われなくなったコエタゴを寄付してもえるよう頭を下げて数十個を集めたそうだ。すばらしいではないか。
・・・が、しかし、残念なことに、コエタゴにはまだ糞尿がたくさんこびりついたままだった。そこで、友達に声をかけて、日曜日に、北山の林を流れる浅い川でみんなで洗おう、ということになった。ぼくは、光栄にもその一人に選ばれたのだ。
もうニオイのことは憶えていないが、うららかなよい日だった。白樺には変わった人がたくさんいて、その中でも際立つ存在の小女郎さん(40センチの高下駄を履いていて、身長220センチで町を歩き回っている石彫職人。若い頃は渋谷でストリーキングをバイトでやっていたそうだ。)とコエタゴを洗いながら話をしていると、彼が福岡にある水城幼稚園の先輩だ、ということが分かり、ぼくも変わった人の仲間入りをしたような気分になり、・・・光栄(?)だった。
洗い終わった後は、ニオイを消すためにドラム缶で沸かした風呂にひとりずつ入った。
何かをつくるために、「集める」というのは大変なことだ。場合によっては、でき上がりよりも、そのプロセスがアートとして価値がある。
今、「集める」ことに興味が回帰している。
→自社ファクトリーでつくる店舗デザイン空間/グリッドフレーム