広がり
意味は絵の中にある。そして、それをもとに、つくられる空間は、その意味から開放されていなければならない。
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「広がりのある風景」というテーマで、絵を描かされた。中学校の美術の授業のことだ。
ぼくは、校舎の屋上から遠くに山を見て、その手前に広がるたくさんの家々を描いたことを憶えている。
なんてベタな構図なんだろう、と描きながら思っていた。
同級生のYくんは、低い目線から田んぼを1点パースを使って描いた。ぼくからすると、思いもしない構図だった。
見たままを描くのではなく、絵をつくる、という認識を初めて得たのはそのときかもしれない。
ぼくはY君の絵を見て、ドライブを感じた。引き込まれる、という感覚である。
先生に高く評価されたのは、ぼくの絵だった。正直、評価なんてつまらない、と思った。
今、ぼくは絵を描いて、それをもとに空間をつくる、という仕事の中にいる。
空間があって、その絵を描く、という当時の行為とは関係が逆転している。
ぼくの仕事でつくる空間は、つくられたものになってはならない、という思いがある。
いかに、必然として存在するものになるか、を目指すとき、結局は、自然がゴールになっていく。
ならば、その設計図としての絵は、逆に、思い切りつくられたものであるべきではないか。
ダビンチの1点パースが、一枚の絵に大きな意味を焼き付けるように。
意味は絵の中にある。そして、それをもとに、つくられる空間は、その意味から開放されていなければならない。
Yくんが広がりを、絵の中に閉じ込めたように、ぼくも広がりを一旦、絵の中に閉じ込めようとする。
それは、空間のつくり手によって、まるで箱を開けたかのように開放され、できあがった空間はまるで最初からそこにあったかのように、単に広がっているのだ。