壊れゆくかたち
醜さを伴わぬ美しさなど、取るに足りない。つくろうとして、ものをつくると、このような取るに足らぬものばかりが現出する。
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私が「壊れゆくかたち」を初めて夢中になって探し回ったのは、15年も前のことである。
すべての壊れてゆくものが、私の心を揺り動かした。
そのとき、私は建築を学んでいた。つくることを学びながら、つくられるものよりも、壊れてゆくものに惹かれていた。
映画「アラビアのロレンス」の中で、ロレンスは、砂漠に惹かれる理由を問われて、「清潔だから」と答える。
砂漠の清潔さは、照りつける太陽がすべてを砂に変えてしまうことによる。そこでは、全てのかたちは消滅する。
大量殺戮も例外ではない。そこで流された血も、時が経てば、まるでなかったかのように一面の砂に変わるだけだ。
つまりは、そこでは全てがリセットされてしまう。ロレンスがいかに十字架を引きずっていこうとしても無駄な抵抗に過ぎない。
イギリスの狡猾さ、アラブのしたたかさ、あらゆる人間の醜い部分が表出しようと、舞台が砂漠である限りは、すべて太陽の下に消されてしまうだけだ。
壊れゆくものの行きつく先は「砂漠」である。それは、エントロピーがこれ以上増大できないところまで増大してしまった場所である。
その場所の「清潔さ」に私も惹かれたのだろうか。
いや、私が惹かれたものは、壊れゆく状態の中にある。与えられた意味が引き剥がされ、見る者それぞれにとって新たな意味が垣間見える瞬間を捉えようとして、じっと目を凝らす。
それは、醜く、それゆえに、美しい。
醜さを伴わぬ美しさなど、取るに足りない。つくろうとして、ものをつくると、このような取るに足らぬものばかりが現出する。
「砂漠」もそうである。砂漠は、すでに、単に美しいものに過ぎない。