「汚しうる美」への誤解
ぼくが「汚しうる美」という言葉を使い始めてから、20年目に入った。
創設時から、グリッドフレームの制作コンセプトとして「汚しうる美を空間の中に実現すること」を提唱してきた。
だが、「汚しうる美」という言葉は、現在も人々に誤解されている。そもそも汚しうる美とは、「汚れ=美」が一般に成立することではない。
汚しうる美とは、美しさを保障されていないものを前にした人が、その人自身の中で発見する美しさだ。
だから、「これは汚しうる美です」と差し出せるものではない。多くの人にとっては、むしろ美しくないものであって当然なのだ。そして、それでよいのだ。
「いや、それは美しくない」と言われると、むしろぼくは安心するくらいだ。
もともと、自然とはそのような在り方をしている。自然は美しい、とは決まっていない。花は美しい、とは決まっていない。空は美しい、とは決まっていない。
その中で「美しい花」「美しい空」をそれぞれの人が発見するのが倫理的な在り方だ。
そういうごくあたりまえの関係性が、あたりまえに感じられない世界に、ぼくらは生きている。
あたかも、一般に「美しい花」や「美しい空」が存在するかのような世界。それは、美の押し売りに過ぎない。
それは必然的にその反対を押し売りしてくる。まるで、一般に「醜いもの」が存在するかのような世界。「汚されたもの」「捨てられたもの」は、目も向けられずに醜いものとして、遠ざけられる。
「汚しうる美」とはつまり、ある人が「汚されたもの」「捨てられたもの」の中に美しいと感じるものがあったとすれば、その人が美しいものを発見したのだ、ということであって、その関係性のみが重要なのだ。
一般的に否定されているからこそ、その一対一の関係性が際立つ。
グリッドフレームのつくる空間においては、「一対一の関係性」が目指されているのだから、「汚しうる美」はそれが成立しているひとつの例に過ぎない。
「汚しうる美を空間の中に実現する」という言葉には「他人の目ではなく、自分の目で見て、よいと思うものをつくる」という意志が込められている。
→自社ファクトリーでつくる店舗デザイン空間/グリッドフレーム