GF001のコンセプトノート

店舗内装デザインを手がけるグリッドフレーム001の視点

人を突き動かすものはなにか

情熱とか、強い意志とか、そのようなものは、あるひっかかりを背景として、後に生まれてくるものではないだろうか。

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柄谷行人の初期の作品である「意味という病」を10何年ぶりかに読んでいる。

冒頭の「マクベス論」を読みながら、人を突き動かすものは何か、について考えている。マクベスは「自分が王になる」という魔女の予言を聞くことによって、「耐えがたいような倦怠」を感じるようになる。「王でないならば彼は何者でもないし、また何をするかしないかもどうでもよくなる」からである。

そんな倦怠から逃れるには、王になるしかないから、王であるダンカンを殺す、という考えが湧き出た、という。

つまり、マクベスは王になりたいのではなかった。

現実において、どれくらいのことがこのように明確な意志を伴わずになされているだろうか。

例えば、自分が毎日日記を書くということも、そこに明確な意志・目的が伴っていないところを面白く感じる。続けざるをえない、自分にとっての「自然」みたいなものが成立してしまっただけである。(まさに卑近な例で恥ずかしいけれど)

自分は一旦始めたことは長く続く。それは、意志が強いとか、たゆまない努力とか、美しい道徳的な響きのものとは無縁である。やめたら、ちょっと悔しい、という程度のひっかかりがあるに過ぎない。

そんな自分も、人の話や作品に感動して、よーしやるぞ!と思ってみたりすることもある。しかし、そんな気持ちは長続きしたためしがない。何かに感動して、すぐに人間が変わるほど、人間はヤワではないのである。

たまたまひっかかりがあることが、なんであるか、によって、外から見たその人の人生は決まるのではないか。情熱とか、強い意志とか、そのようなものは、そのひっかかりを背景として、後に生まれてくるものではないだろうか。

遠藤周作は「イエスの生涯」の中で、ダメ人間だったキリストの弟子たちが、キリストの処刑後、どうしてあんなにも過酷な状況に耐え、キリスト教の布教に献身する強さを獲得したのか、という問題を立てていた。

それが解き明かされているとは思えなかったが、その問題を提起することこそが重要なのだろう。

人を突き動かすものは何か。突き動かされたい自分はどうすればよいのか。

001@gridframe • 2015年6月30日


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