公開授業
陽向が通う予定の小学校の公開授業に陽向を連れて行ってきた。
1年半後にはここにいる陽向をイメージしながら。
1年3組は、社会の授業だった。若い担任の先生は、夏休みに自分でモンゴルの遊牧民生活を体験したそうだ。その体験を活かしたモンゴルについての授業。
その内容は、大人も愉しめるようなものだった。
例えば、モンゴルの馬には名前がないという。どうやって、馬を見分けるのか。馬の色や毛並みを表す言葉がたくさんあって、それによって馬を見分けるのだ、という。
ぼくは内モンゴルへ行ったことがあるが、この話は知らなかった。
司馬遼太郎の対談本で、モンゴル語は隣にいながら中国語を全く取り入れなかったために、熟語がつくられなかった、と書いてあった。
例えば、日本語であれば漢字を取り入れることで「外務大臣」となった言葉が取り入れなければ「そとのつとめをつかさどるおとど」となって、会話や文章がとても長くなっただろう。
モンゴルでは、今でもそんなふうに会話がなされるから、少しの内容の会話がとても長いのだ、と。
馬に名前がない、ということも、このことに関連しているような気がした。
モンゴルでは、容易に便利なものを取り入れることをしない精神があった、のだろう。
便利さによって、ぼくらはそのもの自体をじっくりと観察するという機会(時間)をむしろ失っているのではないか。
旅で出会った人々のことを感慨深げに思い出しながら、そんなことをぼんやり考えていると、隣では陽向があくびをしていた。
・・・まだ無理か。
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