映画 最終目的地
2009年。アメリカ。
淡々としたストーリーは好みだが、人間描写はあまりキメの細かいものとは感じなかった。
大学で文学教師として働く青年オマーは、博士号を取得して大学との契約を延長するため、自殺した作家ユルス・グントの伝記執筆を願っていたが、作家の遺族から拒絶されてしまう。恋人ディアドラの強い勧めと人生を変えたいとの思いから、オマーは亡き作家が暮らしていた邸宅がある南米ウルグアイへと向かう。そこでは作家の兄アダム、作家の妻キャロライン、作家の愛人アーデンとその幼い娘ポーシャ、アダムのゲイの恋人ピートが奇妙な共同生活を送っていた。(wikipedia)
オマーはアーデンと惹かれ合い、オマーの事故で駆けつけたディアドラとの三角関係に陥るが、最終的に、オマーは性格に共通点を感じるアーデンを選び、性格が正反対のディアドラと別れることになる。
つまり、オマーは自分の外部的存在であるディアドラを退け、内部的存在のアーデンと暮らし始めて、この映画は終わる。
だが、外部的存在との共生によって、人間は内部+外部で全体性を獲得できるのではないか?・・・というのは、森敦『意味の変容』を少なくとも50回読んで、ぼくがたどり着いた仮説だ。
オマーはこの映画でいえば『最終目的地』へたどり着いたのであって、もう彼はどこへも行かない。まだたぶん、20代なのに。彼を未来へと駆り立てる外部的存在のディアドラはもういないからだ。
これをめでたし、めでたし、と言っていいのか?
→自社ファクトリーでつくる店舗デザイン空間/グリッドフレーム