調布
武蔵の国にきた。紫草が生い茂っているときいているその野も、いったいどこに紫草が群れているのか、よくわからない。それほどに葦や荻がたかだかと繁っていて、弓を持ち馬に乗った人に出会っても、ふりかえればもう草のむこうに消えているというぐあいである。(『更級日記』菅原孝標女)
今から約1000年前に、父に連れられた13歳の少女が見た風景はこのようなものだった。それから400年以上たっても「一国おしなべて野なり」といわれた武蔵の国であれば、この調布周辺の風景も同じようなものだったに違いない。
「弓を持ち馬に乗った人」は、のちに坂東武者となって、日本の歴史を揺るがしていく。が、当時は単に坂東的生活人にすぎない。馬に乗り、草原に分け入って、弓矢でウサギや鹿を狩る。坂東人は面長で頭頂が長く、さらに手足が長い。腕が長いことは弓矢を遠くへ飛ばし、足が長いことはその足を馬の胴に巻きつけることで鞍の上の体を安定させる。まだ農業は少なく狩猟中心の生活だったろう。ただし、甲州街道沿いを除いては。
武蔵の国の中で、山のふもとに位置する地域が農耕に適していたため、八王子付近から甲州街道沿いに米などがつくられた。国府も府中市に置かれ、武蔵の国は西からひらけた。徳川家康が江戸村へやってくるまでは、現在とは逆だった。
家康が江戸へ着いたころには百戸の茅葺しかなかった江戸村が発展して、400年余りの時を経て、現在の東京23区へと膨れ上がることになる。一方、当時の八王子には秀吉の軍に追い落とされた坂東武者たちが溜まっており、彼らは家康に召し抱えられて甲州街道の西端の守りに就いた。
「愛国心は辺境に生ず」という通例がある。彼らは、その後の歴史の中で身を挺して幕府を守るために奔走する活躍をみせる。
同様に、江戸を愛する精神も、かえって西の甲州街道沿いに息づいているのかもしれない。
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